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ニジンスキーの手記 完全版

ヴァーツラフ・ニジンスキー / 新書館


ニジンスキーの画像を掲載したかったのですが、私的な資料用とはいえ今や巷は著作権問題で揺れておりますので、書影に肖像写真を使用しているこちらを掲載。
ブログに書く前にこちらを読みたかったのですが叶わず、自分の知識と新たに検索して調べた内容を整理して、ニジンスキーの劇的な人生をざっとご紹介します。
ご紹介すると言っても有名な方ですし、山岸凉子さんの漫画や映画にもなったりしていてご存知の方が多いと思います。目新しい情報は少ないかも知れませんし、私はバレエは詳しくないので表面的な事だけです。しばしば脱線もしますんで(おまけに長い)、ダメな時は読み飛ばしてくださいませ。

〈 その1 〉でも書きましたが、ニジンスキーは伝説的なバレエダンサーで、振付家です。
1889年3月12日にロシアで生まれました。その頃日本は明治22年ですので、大日本帝国憲法が発布されて一ヶ月ほど経った頃です。ちなみに、奥村土牛(日本画家)や岡本かの子(小説家で岡村太郎・母)が同じ年に生まれております。
両親はともにポーランド人のダンサーで、血筋でしょうか、9歳で舞踊学校に入学するとずば抜けた才能を見せて、18歳の時には既に主役として舞台に立っていました。
そして、セルゲイ・ディアギレフとの運命の出会いがあり、1909年にディアギレフが旗揚げしたバレエ団『バレエ・リュス』で見事に開花しました。
『バレエ・リュス』というのは、マティスルオーローランサン、ココ・シャネル、ストラヴィンスキーなど名立たる芸術家が衣装や音楽、舞台美術などに参加していたという、今から見ると奇跡のようなバレエ団ですね。
踊り手には、こちらも伝説的なプリマドンナ、アンナ・パヴロワ(所属バレエ団は別にあった)や振付師のミハイル・フォーキンなど、素晴らしい才能が結集していましたが、その頂点に若干二十歳のニジンスキーがいました。
この『バレエ・リュス』に参加していた1909年〜1913年の間に、ニジンスキーは伝説的な踊りを披露しています。
「跳んだまま戻って来なくて、客が忘れた頃に降りてきた」という、まるで空を飛ぶような高い跳躍と艶かしい肉体の表現力で、ジャン・コクトーをはじめチャップリンピカソ、ロダンを虜にしたとか。

見てみたいですよね〜。残念ながら映像はないんですが写真なら見る事が出来ます。
Vaslav Nijinsky, Russian Dancer Canvas Print 
と入力するとかなり良いレベルの写真がごろごろ出て来ます。ただし、ほどんとが海外のサイトに繋がりますので閲覧する時はご注意ください。
私は検索が下手で、イラストを描く前はモノクロ写真しか見つけられなかったのですが、なんとカラー画像(人着)があったんですよ! モノクロだと眼光が鋭くて大人っぽく見えたのですが、あどけない感じが残った青年でした。う〜ん描く前に見つけていたらもっと違った仕上がりになったのに…。
他には『手品師とクジラ』というサイトでご紹介のあった、ニューヨーク公共図書館のニジンスキー紹介ページが良かったので、こちらでもご紹介します。英語ですが分かりやすいし、安心して閲覧できます。画像をクリックすると大きく見られますので、お勧めです。

さて、こうして写真を見てみますと、あまり背が高くなかった上に非西洋的な顔立ちから、『日本人』というあだ名がついていた…というのですが、結構な美青年だと思います。全然東洋的には見えません。ディアギレフさんは美少年趣味だったのね…。
『日本人』というあだ名から…という訳ではなく、空中で静止したような飛翔を見せるダンサーと聞いて私が思い浮かべるのは、熊川哲也さんです。
熊川哲也さんがローザンヌ国際バレエコンクールで踊った『ドン・キホーテ』の飛翔は、本当に空中で静止して見えたのでビックリしたものです。もちろん今の方がもっとずっと凄いんでしょうけど、17歳の美少年が宙を舞う姿が今でも脳裏に焼き付いております。

…さらに脱線しますが、今日までバレエ界にはたくさんの優れたダンサーがおりましたが、その中でニジンスキーの再来と言われたのが、ルドルフ・ヌレエフさんというソ連から亡命したダンサーなんですが、私はこの人が絶頂期を迎えていた頃に生まれたので、教育テレビの『劇場への招待』で観た覚えがあるような…ないような。
私はこの『劇場への招待』が大好きで、宝塚もバレエもこちらでよく観ていましたが、やっぱりバレエは女性が花形(当時は男に興味無し)…とぼや〜っと観ていたものです。その思い込みを一蹴し、「バエレってすごい!人体ってすごい!」と目覚めさせたのは、クロード・ルルーシュ監督の映画『愛と哀しみのボレロ』の中で『ボレロ』を踊るジョルジュ・ドンでした。
これは当時のバレエファンではない多くのパンピーがバレエに目覚めた作品で、私にとってのニジンスキーの再来とはジョルジュ・ドンなのです。
※映画『ホワイトナイツ/白夜』のミハイル・バリシニコフで目覚めた人の方が多いかも。バリシニコフはヌレエフと同じくソ連から亡命したダンサー。ダンスだけじゃなく俳優もしております。

ジョルジュ・ドン(1947-1992)は振付家モーリス・ベジャール(すごく目力のある魅力的な人)率いる20世紀バレエ団の最も重要なダンサーでした。のちに自身のバレエ団を旗揚げしますが、1992年にエイズのため45歳で他界しました。余談ですが、前述のルドルフ・ヌレエフさんもエイズで亡くなっています。54歳でした。
悲しい事に、作家でも芸術家でも亡くなってしまうと、ファンの方はともかく、忘れ去られてしまう事が多いですよね。彼はもうこの世にはいませんけれども、彼の踊る姿を多くの方に観て頂きたいと思うのですよ。ですので、↓是非、こちらの作品は観て頂きたい。

愛と哀しみのボレロ [DVD]

紀伊國屋書店


これはバレエ映画ではございません。
今、日本は安保法案で揺れておりますけれども、戦争によって人々の人生がどうなるのかが描かれていますよ。ドンの踊りだけでなく、よくよく考えて観て頂きたい。そして、嬉しい事にデジタル・リマスター版が、2015年10月17日(土)より、YEBISU GARDEN CINEMAにて4週間限定で公開されるんだそうですよ!
詳しくはこちら→ http://www.fashion-press.net/news/18737
すご〜く長くて(休憩入るはず)トイレとか大変なのだけど、これはやっぱり大きなスクリーンで見た方が良いと思います。2015年10月17日(土)〜11月13日(金)までです。是非是非

さてさて、話を戻します。
ニジンスキーは踊るだけではなく、ディアギレフのサポートを受けてバレエを振付けて上演していますが、特に有名なのが『牧神の午後』(1912年)です。ちなみに、山岸凉子さんの漫画のタイトルも内容もコレです。
牧神に扮したニジンスキーが、乳牛柄をペイントした衣装でニンフの落として行ったヴェールを抱いて自慰行為をするという振り付けで(実際しちゃったんだそうですよ、舞台の上で)、下品だと不評を買ってしまいましたが(それはそうでしょうよ。今なら捕まっちゃう)、ニジンスキーを語る上では欠かせないエピソードです。
その後ストラヴィンスキーの『春の祭典』(1913年)で、それまでのバレエでは考えられなかった前衛的振り付け(今では当たり前?)をし、20世紀バレエの幕開けを意味する踊りと評されています。
そんな輝かしいニジンスキーの人生は、1913年から下り坂になります。
ディアギレフと恋人(同性愛)関係だったにも関わらず、ハンガリー人のバレリーナで彼のファンだったロモラ・デ・プルスキと興行先で突然(!)結婚してしまい、ディアギレフから『バレエ・リュス』を解雇されてしまうのです。

このセルゲイ・ディアギレフという人は、地方のお金持ちの坊ぼんで、自身が芸術家(特に音楽系)を目指していたそうですが、早々に才能無しと見切りをつけ、絵画の展覧会を開催したり芸術雑誌を刊行するなどプロデューサーに転身し、のちにバレエに対象を絞り「総合芸術としてのバレエ」を確立しました。
ディアギレフの才能を発掘する審美眼は確かだったようで、前述した名立たる芸術家を動員した『バレエ・リュス』の衣装を集めた展覧会—魅惑のコスチューム:バレエ・リュス展—が、昨年の今ごろ国立新美術館であったんですが、本当に素晴らしかったようで、見られなかったのが残念無念…。

美しいモノが好きな人は、ゲイが多いのでしょうかね…、ディアギレフは根っからの同性愛者でした。それは別に良いんですが、ただ、この人にはあるクセ(?)があって、性愛の対象を一流の芸術に触れさせて教育するという習慣を持っていた(出典:ウィキペディア)というのです。(ニジンスキーの他にもいっぱいいたんですね)
私は最初、『舞台で踊りたくば、おまえの体を捧げよ〜』ってムリヤリ関係をもっちゃうのかと思った(多くの人がそう思ってる?)のですが、ニジンスキーだけじゃなく審美眼で見いだした若い(ここ、強調)性愛の対象(♂に限る)を一流のダンサーに育て上げるのが趣味(?)だったのかな…。
では、二人の関係はムリヤリだったかというと、違うと思います。ニジンスキーはディアギレフに会う前(10代)には『男も女も知っていた(バイセクシャル)』そうで、誘われて関係を持つ事に躊躇わなかったのではないでしょうか。
前述した『牧神の午後』のエピソードなどと合わせてみますと、踊っている時に得られるエクスタシーと性交中のエクスタシーはどちらも同じ感覚で、気持ち良くなる事は素直に好きだったんじゃないかと。
ただ、ディアギレフとニジンスキーの恋愛感には、温度差があったのはないでしょうか。
伝記や評伝を読破した訳ではないので私の想像にはなりますが、ディアギレフはニジンスキーを才能だけでなく精神的にも愛していたと思いますが、女も愛せるニジンスキーにはディアギレフの執着が重かったのかも。
他にも問題があったのでしょう。でなければ、言葉も碌に通じない相手と結婚なんてしないと思うのですよ。電撃的に恋に落ちたとも言われていますが、何をどう思ってそうしたのか、真実は本人しか分からない事です。
どちらにしろ、ディアギレフは激怒します。これは分かる気がします、とっても。
一説によれば、ニジンスキーは結婚したからって『バレエ・リュス』から追い出されるとは思ってなかったようなので、やはりかなりの温度差を感じますね。
これが喩え完全なるパトロンと芸術家の関係だったとしても、この仕打ちは裏切られたと感じるのが普通でしょう。でもまあ、関係が終わる時なんて、こんなもんです(達観)。そして、ディアギレフは女性に盗られて終わるパータンが多かったみたいです(涙)。

こうして追い出されたニジンスキーは、新たにバレエ団を旗揚げしますが、踊る事にかけては天才でも興行師としての才能は無かったようで失敗に終わります。
思うように踊れる環境がなくなり、第一次世界大戦中に拘留されるなど心労が溜まったのか、次第に精神を病むようになり1919年の公演を最後に舞台から姿を消しました。
最初にご紹介した『ニジンスキーの手記』は、精神を病み始めた頃に書かれたそうなので、読むのが切なくなりそうです。
結局、ニジンスキーが活躍したのはわずか10年。その後は精神病院を出たり入ったりしながら(第二次世界大戦中には、あわやナチスに殺害されそうになったりもした)30年以上も隠遁生活を送り、1950年にロンドンでその生涯を閉じました。61歳でした。現在はモンマルトル墓地に改葬されています。
※この長い闘病生活の模様はロモラ・ニジンスキーが書いた『その後のニジンスキー』に詳しく書かれているそうなので、興味のある方はこちらもどうぞ。
参考・出典:ウィキペディア、ほぼ日刊イトイ新聞『担当編集者は知っている。』、松岡正剛の千夜千冊1099夜 より

ざざっと触れましたが、波瀾万丈ですね…。狂気に陥った原因は様々言われていますが、真偽のほどは分かりません。
これは私の個人的見解ですが、ニジンスキーにとって “ 生きる事 ” は “ 踊る事 ” だったと思うのですよ。〈 その1 〉で触れましたがどの舞台写真でも本当に嬉しそうで、その役になり切っているのでしょうか、とても生き生きしています。私は特に『ジゼル』の写真が好きです。すごく奇麗です。
踊る事と舞台を創造する(振付ける)事、それに付随する肉体的な悦び(運動によって起こる高揚感と、衆目を集めその視線を浴びる快感など)が、彼の人生の全て(存在価値)だったから踊っていられれば幸せで、それ以外の恋愛とか生活の雑事は大して重要ではなかったのでしょう。
だから誰と結婚しても、一番重要な『芸術的なバレエを創り上げたい』と思う部分で、ディアギレフとは深く繋がったままだと思っていたのかも知れません。
そう考えると、踊る場がなくなってしまったのが、病んでしまった大きな要因なのでしょうが、だからと言って誰のせいでもないと思います。
今、仕事がらみで、タイムリープして人生をやり直す少女の漫画を読んでいますが、現実の人間の人生は、何度やり直しても同じになるような気がします。だって、この人生でなければ、伝説のダンサー『ニジンスキー』ではないように思うからです。

最後にこちらの本のご紹介。
ニジンスキーを知るには、『ニジンスキーの手記』だけでは戸惑ってしまうかも。こちらの評伝も合わせて読もうと思います。
余談ですが、同名のタイトルでジョルジュ・ドンが踊る舞台があります。見たかったな…

ニジンスキー 神の道化

鈴木 晶 / 新書館


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by apodeco | 2015-09-10 00:00 | 肖像 | Comments(0)