紫雲、棚引けば—庚申塚高校物語— その9

a0095010_1882619.jpg台風、すごかったですね。皆さまのことろは大丈夫でしたでしょうか。
台風のことを「野分(のわき)」と言うのだそうです。日本語は本当に美しいと思います。
(実際の自然現象は、美しいとばかり言っていられませんけれど)

今書いているお話は、主人公二人の同時間の出来事を、各人の目線からはじまった訳ですが、登場人物が増えるとそれだけ場面も増えるということで、岡田くんの話は四人分の分量があります。
この後、朝比奈くんの話へ続きますが、更に増える…と思います。登場人物も更に増えます。
 終いに自分でも分からなくなりそうで、数えてみたところ両親や兄弟を省いても16人出てきています(名前だけしか出てこない人も含みます)。
人は必ず誰かと関わります。一人で生きている人はいないからです。人生でただすれ違うだけの人も含めれば、いったいどれくらいの人々と、出会って別れていくのでしょうか。必ずしも良い出会いばかりではありませんが、やはり縁があっての事ですから、大切にしたいと、私は思います。
 
では、いつものように↓より、どうぞ。
※この物語はフィクションです。実在の人物・事件・団体等、一切関係ありません。



[岡田克巳の場合(3)]

 すっかりやる気を無くした俺は、宇都木先生に早めに上がる許可を得ると更衣室へ向かった。
 夕方の風は少し冷たい。それでも湿り気を帯びはじめた風は春のそれとは違っていて、季節の移行を教えてくれる。人が同じところで立ち往生していても、季節や時間は過ぎて行く。高校生になったら、何かが変わるかもしれないと漠然と期待したけれど、ただ生活の空間が変わっただけで、何も起きないし何も変わらない。
『勝てたら、変えられる!』と佐々木はそう言い切ったけれど、あいつは何を変えたいのだろう? 一見、どこも変えなければならない要素など見あたらない佐々木の変えたい事って、一体なんだろう。剣道の試合に勝てたら変えられる、そんな簡単なものなのだろうか?
「克巳! いるの?」
 物思いに耽りながらのろのろ着替えていると、入り口で薫の声がした。返事をして入ってくるよう促すと、おずおずと入ってきた。体育の着替えを男子は教室でするから、運動部以外はこの更衣室を使わない。薫には馴染みがなく、しげしげと辺りを見回している。
 更衣室とは名ばかりで土間のような固い土の地面に、トタンで作られた壁に添うように取り付けられた木の棚がひたすら並んでいるだけで、まるでブロイラーの厩舎のようだった。部屋の広さに比べて蛍光灯の数が少なく昼間でも薄暗い。風通しが悪いから、男くさくて長居はしたくない場所だった。
「生物部、終わったのか?」
 居心地悪そうにしている薫に訊くと、部活はなく俺が終わるのを待っていたのだと言う。俺の帰りを待ってるなんて、高校に入ってから初めてかもしれない。
「佐々木はどうした?」
 最近は二人ワンセットでいる片割れの姿が見えない。
「道場へ行ったよ。金曜日に試合が決まったんだって。これから毎日道場通いするって言ってたよ」
 佐々木がいないから俺の所へ来たのかと卑屈な事を考えて、すぐに頭を振った。昼間、女どもに言われた事が引っかかっているのだろうか?
『岡田くん、ナイト役取られちゃって、お役ご免だね』
 同じ中学から進学した女どもは、どういう漫画の影響か、俺と薫をただならぬ関係だと噂して喜んでいたが、最近はもっぱらこの展開に執心していて、取られただの、可哀相だのと言ってくる。はじめは相手にしなかったが、あまりにしつこくて睨みつけると
『お〜、こわっ! そんな目で見ないでよ。ハンサムが台無し。そんなコワイ顔するから取られちゃうのよ』
 笑いころげながら走しり去っていった。その後ろ姿を茫然と見詰めながら背筋が寒くなった。走り去る女子の声に被さって別の声がする。忘れたくても忘れられない台詞だ。

『なんて顔で俺を見るんだ。そんな目で見るな! お前は親父にそっくりだ。何もかもがな!』

 父親が酔って叫んだ姿が、今も脳裏に浮かんでくる。好かれてはいないと知ってはいたが、そんな理由だったなんて思わなかった。そんな目ってどんな目だ。俺は好きでこんな顔に生まれたんじゃない!
「克巳?」
 薫の声で物思いから我に返った。同時に部活を終えた連中が更衣室へ入ってきて、薫を見るとあからさまに口笛を吹く奴がいた。すぐ行くからと薫を外へ出すと、口笛を吹いた奴を睨み付けた。確かに俺の顔は怖いらしい。みんな明後日の方を向いて、すぐに着替え始めた。適当にスポーツバックに衣類を突っ込むと上着を抱えて表へ出た。薫の腕を取って引っ張るように歩き出したが、苛つきが収まらない。今日はどうかしている。
「待ってたなんて、なんか用? 佐々木と何かあったのか?」
 声が低くなる。機嫌が悪いのが分かるだろうが、抑える事ができない。薫は立ち止まると逆に俺の腕を引いて向き合う形になった。
「克巳、悩み事があるんでしょう? 陸上の事? 家の事? 僕じゃ力になれない?」
 驚いて薫の顔を凝視した。潤次といい薫といい、何故そんな事を言うのか? そんなに悩みを引きずって見えるのだろうか?
 急に恥ずかしさに駆られて、怒りも苛立ちも霧散してしまった。替わりにひたすら恥ずかしくて、思わず顔を押さえてしまった。落ち着け俺。目を閉じて深呼吸する。俺の態度に確信を深めた声で薫は尚も聞いてくる。この反応では無理もないけれど、どうしてそう思うのだろう。
「ちょっと待って。どうして俺が悩んでるって思うの?」
「ごめんね、克巳。もっと早く気づいてあけなきゃいけなかったんだけど、僕は自分のことで精一杯で。克巳の事に気づいたの、川村先生なんだ」
「は?」
 思いがけない人の名前が出て惚けてしまった。何で川村先生が出てくるんだ? 俺が悩んでるって先生が言ったのか?
 思わず吹き出してしまった。川村先生とは授業でまだ数度しか顔を合わせていないし、まともに話したこともない。その先生がどうして悩み事があるなどと分かるのだろう。きっと何か誤解している。突然笑い出した俺を薫はぎょっとした顔で見詰めている。
「そりゃ、何か、誤解してるよ。大丈夫。悩み事なんてないよ」
 笑いながら取り合わない俺に薫がむきになって声を大きくした。
「僕も最初はそう思ったけど、克巳、最近ちょっと変だよ。佐々木には意地悪い事言うし、イライラしているみたいだし。走るの辛そうだよ」
「え?」
 薫の最後の言葉に笑いが止まった。走るのが辛そうって、本当にそう見えるのか。
「そう見えるのか?」
 恐る恐る訊くと、薫はちょっと戸惑ったが、こくりと大きく頷いた。
「今日、上で、生物準備室で克巳が終わるの待っている間、ずっと見ていたんだ。川村先生も一緒にいたんだ。先生ね、いつも克巳のこと見てるんだよ。僕に走るの辛そうって教えてくれたの先生だけど、僕も今日そう思った。先生は、克巳がもう走るのは嫌なのかもしれないって、元から好きじゃないのかもしれないって言ったけど、それは違うよね。だって前はあんな風に走らなかったし、走るの楽しそうだったよ。だから何か悩みがあるんだと思ったんだ」
 薫の声を聞きながら生物準備室を見上げた。今は閉まっている窓から、いつも川村先生が見ていたという。全然気づかなかった。親ですらまともに見ないのに、たった数ヶ月前に知り合った先生が俺をずっと見ていたという。
 走るのが嫌だと…どうして分かったのだろう。
 俺はまた笑い出した。自分を理解してくれる人がいることの驚きと、それがどうして赤の他人なのかという理不尽さに、可笑しくて、悲しくて、発作みたいに笑いが止まらなかった。すぐ側で練習していた陸上部の連中が何事かと俺たちを見ていたが、笑う事を止められなかった。腹を抱えて蹲るように膝を突いた俺の腕をとりながら、薫はおろおろと何度も名前を呼んでいた。
 そうだ、俺はもう走りたくなかったんだ。走るのが嫌だったんだ。
 自分でもたった何日か前に気づいた気持ちを川村先生に言い当てられて、最後には悔しくて涙がにじんだ。
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Commented by やすみん at 2007-09-16 10:25 x
まだ途中ですが、岡田くんのことがねちこく(!?)書かれていて、余は満足じゃ。です。
そうか、走るの嫌だったのか…岡田くん。
何で?
高校時代の部活で、自分の限界を感じて辛くなり、スランプになり、絶不調の中で引退試合を迎えてしまったという苦い思い出があります。
今でもほろ苦い思い出です。
私の場合、努力が足りなかったと思いますが。
頑張れ岡田くん!


Commented by apodeco at 2007-09-16 17:22
ねちっこく(笑)書いてますね〜。
岡田、朝比奈の独白後は佐々木・飯島で進行しますので、岡田くんの話をここできちっと書いておきたかったんです。
更にねちっこく続きます(笑)
人間は能力も然る事ながら、メンタルな部分も影響しますから、「常に良い状態でいる」こと自体が難しいですね。
私は、自分が「それで良い」と納得して生きていく事が大切だと思うので、結果はどうあれ、その時の全力で頑張ってほしいなぁと考えています。
by apodeco | 2007-09-08 18:47 | 学ラン通信 | Comments(2)