紫雲、棚引けば—庚申塚高校物語— その10

a0095010_17244888.jpg一番古い自分の記憶はいつ頃のものか。皆さんは覚えておられますか?
私はだいたい3、4歳くらいですね…。多分親から聞いた話と自分の記憶が融合していて本当の記憶かどうか定かではありませんが、なんとな〜く覚えています。
3歳のとき、障子貼りに夢中の母の横をこっそり通り抜けて、スリッパのまま道沿いに山手線のホームまで行ってしまったのも、自分の記憶として残っています。(あのまま電車に乗っていたら、今頃別な人生歩んでましたよ)
7、8歳くらいになると、記憶も割と鮮明で、友だち同士でかなり大人な会話をしていたように思います。小学生になって沢山友だちも出来て、人も好きになるし、喧嘩もするし、意地悪もするし…。毎日ぐるぐる真剣に、生きていたように思います。
記憶を辿っていくと、ほんのちょっとした事で、もう少し楽に生きられる気がするのにどうして出来ないのかと、それこそタイムマシンでもあれば当時の自分に言って遣りたい事もあります。でも、だからこそ今の自分がいるのだと、最近は思いますけれど。

さて、岡田くんの話、長いです。暗いです。頑張って覗いて見てください。
 では、↓よりどうぞ。
※この物語はフィクションです。実在の人物・事件・団体等、一切関係ありません。



[岡田克巳の場合(4)]

子どもの頃の記憶は殆どない。覚えている限りの古い記憶は幼稚園児のとき。母に父はどうして自分を見ないのかと聞いたのだ。
母は「小さい子どもが苦手なの。どうしていいか分からないの」と答えた。理解できたのか覚えていないが「ふ〜ん、そうか」と思ったことは覚えている。本当の理由は違ったけれど。
 父親は新聞社の社会部の記者で忙しく、家にいたことが殆どなかった。物心ついた時から母と父方の祖母と三人だったから、たまに父が帰宅しても知らない人がいるようで居心地が悪かった。インテリで神経質で、いつもピリピリと張りつめた感じが馴染めなかったし、父もどこか俺に対して一線を引いているような余所よそしさがあった。側にいるのが嫌で、父が家にいる間は自分の部屋に閉じこもって過ごした。
 もともと一人遊びが好きだったようで、祖母の話では幼稚園でお遊戯に参加しても、いつの間にかみんなの輪から外れて一人で遊んでいたらしい。先生は他の子どもの邪魔をしなければ構わないと、そのまま好きにさせていたようだ。
 一人息子が他の子どもと同じ事ができないとか、普通と違うと言われたら、母親は慌てるものだと思うが、やはり迷惑をかけないならいいと、あまり動じなかったようだ。自由にさせてくれたけれど、抱きしめられたとか可愛がられた記憶がない。それでも子ども扱いせず、大人と話すように何でもはっきり言う母のことを嫌いではなかった。幼児期は特になんの不満も感じなかった。
 俺が自分の家族は普通と違うと思い始めたのは、小学校に入学してからだ。あまり人とスキンシップを取ってこなかったせいか、もともとの顔の構造か、俺は表情の少ない大人しい子どもだった。好き勝手してきたので協調性がなく、はっきりした意志表示もしなかったので、教師に自閉症ではと疑われたくらいだ。さすがの母も心配したようだが、クラスの子どもと仲良くなると活発にはしゃぐようになったから自然と解消された。
 この時一緒のクラスになったのが、潤次と薫だった。二人は先生に頼まれて、友だちの輪に入れない俺の相手をしてくれたが、いつの間にか大の仲良しとなり、串に刺さった団子のようにいつも一緒に過ごすようになった。
 彼らの家に遊びに行って初めて感じた違和感を今でもはっきり覚えている。自分の家とは全然違う親子関係に驚愕し戸惑った。特に潤次の家は自宅が写真館ということもあって両親とも常に家にいたし、商売人という事を差し引いても世話好きの親しみ易い人たちだから、この俺があっという間に懐いてしまった。
 薫の家は母親がいなかったし、姉も一回りも年が離れていて、自分と変わらないと思っていたが、父兄参観などに薫の父親は必ず出席して、穏やかな笑みを浮かべて見詰めていた。まだほんの子どもだった俺にも、あの笑顔が、視線が、愛情と慈しみに満ちたものだということを理解できた。
 成長して他人と接する機会が増えれば増えるほど、自分の置かれている環境が異常なように感じたが、そうかと言って今更親に甘えることもできなかった。俺の親が潤次や薫の親のような反応を返してくれないことを自分が誰より分かっていたから。
 この頃から家では入学当初の無表情、外では明るく過ごす二面性を持つようになった。その方が精神的に楽だったからだ。自分の親とどう接していいか分からなくなった俺は、極力両親と関わるのを避けた。父は帰宅すれば時折学校の事を聞いてきたが「べつに」と答えるだけでやり過ごした。それほど成績も良くなかったし、顔の事でからかわれる薫たちを守るために、他の生徒と取っ組み合いをして怪我をさせたりしていたから、母からなんと伝わっていたものか、呆れたような諦めたような顔で見られるのが常だった。その顔の中に薫の父のような慈しみの表情はなく、やっぱり嫌われているなと漠然と感じていた。
 それでもまだ少し “ 親に好かれたい ” と思う気持ちは残っていたから、唯一得意だった体育で、走るのが速いと担任に誉められたことがきっかけで走り始めたのだ。クラスで一番、いや学校で一番早く走れるようになれば誉められるかもしれない。自分を見て、認めてもらうには “ 自慢できる息子 ” になればいい。単純だけれど、子どもの頭ではそれしか思い浮かばなかったから。
 だが、それも簡単にうち砕かれてしまった。

 俺が八歳になった年だった。現職の総理大臣が汚職で捕まるという世間をあっと言わせた重大事件が起こった。事件を担当していた父は連日不眠不休で取材をしていたが、ある日、突然夜中に酔って帰って来ると書斎で暴れ出したのだ。
 大きな物音に驚いて何事かと書斎へ駆けつけると、父が何か怒鳴りながら部屋の本という本を壁へ投げつけ、原稿用紙を切り裂いて空に投げ上げていた。母が宥めるように声を掛けていたが一向に収まらない。俺は父が狂ってしまったのではと、祖母と二人で廊下から茫然と眺めていたが、俺の視線に気づいた父が脱兎のごとく詰め寄って吐き捨てたのだ。
「なんて顔で俺を見るんだ。そんな目で見るな! お前は親父にそっくりだ。何もかもがな!」
 何を言われているのかよく理解できなかった。言われたと同時に母が素早く扉を閉めてしまったので、まるでテレビのスイッチを切られたように目の前の出来事が消え失せた。それでも言われた言葉は一瞬で頭に焼き付いてしまった。
 もしもこのとき祖母がいなかったら、俺は今、違う生き方をしていたかも知れない。祖母だけじゃない、潤次や薫がいなければ今頃どうなっていたかわからない。
 祖母は茫然としている俺を自分の部屋へ連れて行くと、今お前に話しても理解出来るか分からないが、どうしても話しておく、そう言い置いて父と祖父の話をしてくれた。随分細かく長い話だったと記憶しているが、要約すれば今の俺たちのように長い間不仲で、関係を修復することなく祖父はそのまま亡くなったということだった。
 丸ノ内にある商社の出納係だった祖父は、仕事の関係で政治家と親しくなり、その太鼓持ちのような事をしていたらしい。(かなり汚い事を引き受けていたようだが、祖母はそこまで話してくれなかった)
 外面は良いが家では暴君で、外に持ち出す金の方が多かったから父は苦労して大学を出たそうだ。昔の男はみんなそうだったと祖母は笑ったが、昼に自分だけ鰻重をとって、父や祖母の目の前で「欲しければ、お前も自分で稼いで喰うんだな」と笑ったと聞いた時には、まともな大人とは思えなかったし、祖父は特別だろうと思った。
 その祖父に「お前の顔はよく似ている」と祖母は言った。父の台詞が蘇って頭の中で意味を結んだ。同時にどっと冷汗が流れるような嫌な冷たさを感じて体が震えて止まらなかった。今もあの時の肝が冷える感覚は忘れられない。それでも頭の隅には妙に納得がいったような、長い間分からなくてもやもやしていたものが、すうっと晴れたような感覚があって、泣くとか怒るとかいう感情は辛うじて抑えられた。
 これが、父が俺を見ない本当の理由。俺を嫌う理由。
 祖母は痛ましそうな顔でこちらを見ていた。震える声で俺は尋ねた。
「僕は、そんなにお祖父ちゃんに似ているの?」
「生まれたときの顔が、お祖父ちゃんの死んだときの顔にそっくりだった」
「だから、お父さんは僕が嫌いなんだ」
「嫌いじゃないよ」
「どうして? お祖父ちゃんを嫌ってたんでしょう? 僕はそっくりなんでしょう?」
「お前は、お祖父ちゃんじゃないもの。似ているのは顔だけで、他の誰でもない、克巳は克巳だから」
 祖母は真っ直ぐ俺の目を見て言い切った。その言葉には力が篭もっていて、心底そう言ってくれているのがよく分かった。いつも嘘のない人だったから。でもそれは祖母の言葉であって、父の言葉ではない。
「お父さんは、そう思ってないよ。さっきそう言った」
「お父さんを許しておやり。仕事で大変だったんだ。お酒を飲んで普通じゃなかった。決して本心じゃない」
 信じられない。その思いで頭を占領されていたから、何を聞いても父が俺に持っている負の感情を覆す事はできないと思った。何より、俺自身が父の罵声に納得してしまったから。
 俺が何を口に出しても、延々繰り返されるであろう祖母の言葉は想像できたから投げやりに切り返した。
「ばあちゃんはどうなの? ばあちゃんはお祖父ちゃんの奥さんでしょう? そんなひどいお祖父ちゃんのこと嫌いじゃなかったの?」
 祖母はしばらく黙っていたが、にっこり笑って口を開いた。
「嫌いじゃなかったさ。そうじゃなければ、お前のお父さんも、お前も、今ここにはいないよ」
“ 嫌いじゃない ” 子ども心に微妙な答えだと思った。益々捻くれた自虐的な気持ちで訊いてみた。
「じゃあ、ばあちゃんは僕のこと好きなの?」
 生まれて初めて訊いたことだった。本当はずっとずっと、父にも母にも訊きたいことだった。
 祖母は両手を開いて差し出すと「ばあちゃんは、克巳が大好きだよ」と微笑んだ。その笑顔が滲んで見えなくなったと思ったら、祖母に抱きしめられていた。

 明くる朝、目覚めた時には父の姿はなく、また何日も家には帰ってこなかった。家に戻ってからも父はいつものように平然としていて、あの出来事をまるで覚えていないようだった。別に誰も何も言わなかった。誰も触れたくなかったから、何事もなかったように過ごした。
 その後ずっと、さり気なく陰になり日向になり支えてくれた祖母は俺が中二のときに亡くなった。
 あの日以来、俺は親に何かを期待することはなくなった。憎む気持ちは不思議と生まれなかったが、父の存在を蔑む気持ちは止められなかった。祖父の言動を非難し、太鼓持ちをして政治家のおこぼれに預かっていた祖父の姿を憎むあまりに就いたという新聞記者の職業も、俺から見れば、家族を、いや、俺を省みない父がどの正義を振り回してなったものかと侮蔑した。
 好かれたいとか、俺を見て欲しいなどと思うのは愚かなことだと諦めた。“ 自慢できる息子 ” などはじめから成り得ない。
 もう走ることの意味はなくなったが、今まで陸上を続けてきたのは、単に人格破綻者だった祖父と自分は違うものだと感じたかったからだ。誰の力も介在しない自分の肉体のみで勝負すること。鍛錬と与えられた優れた能力と、誰にも負けない強い精神力だけで勝ち残っていく。陸上はそんな自分の求めるものを手っ取り早く得られる唯一の方法だった。
 だから走ってきた。だから記録に拘った。勝ち続ければ、自分は違うのだと安心することが出来たから。
 でも今は、それすら虚しくて、もう走りたくなかった。
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by apodeco | 2007-09-16 18:25 | 学ラン通信